人を救う答えを求め、心理学から聖書の道へ 新谷 仁春 KIMIHARU SHINTANI 人間科学部卒業。幼い頃から「人を精神的に助けたい」と思い、心理カウンセラーという仕事や働き方を考えていたが、大学時代に心理学の限界に気づき八方塞がりに。その時キリスト教福音宣教会(CGM)の教会に出会い、聖書の御言葉を学び始める。社会人生活を経て、現在は牧会に従事。好きなことは、「自然観察」*1、「詩や文章を書くこと」*2、「登山」*3です。*1 自然を通して神様の理致が深く悟られるから。木、石、植物、山、森、土など広い範囲の自然が対象で、特に”土”が最近のマイブームです*2 コロナ禍の2021年〜以降に始めました*3 山登りが「人生の縮図だ」と悟ってから好きになりました Q.牧師になった経緯を教えてください。 私はキリスト教福音宣教会(CGM)に出会う前から、信仰まではいかないものの「神様はいる」とはっきり信じていました。なぜかというと、私は体重1500g程度の未熟児で生きるか死ぬか半々の状況で生まれたんですが、無事成長できました。その後も、小学校の頃には車に撥ねられて吹っ飛んだけど無傷。中学校では砲丸投げの球が後頭部を直撃したものの、検査しても異常はなくて後遺症もなしなど、死んでもおかしくなかったのに助かったという経験が記憶にあるだけで10回以上あります。何かに命を助けられている感覚があったので、中学生の頃には「絶対に神様はいるし、どうやら自分は(神様によって)めちゃくちゃ生かされているようだ」と考えていました。しかし、なぜ神様が私をここまで生かしてくれているのかは、ずっと分からないままでした。 そんな私の子供頃からの夢は「人を精神的に助ける人」になることでした。それでカウンセラーを目指し、心理学を学ぶため大学に進学しました。でも、いざ実際に心理学を勉強してみると、心理学は現状の分析や把握をするのが得意な科目であって、現状をどれだけ分析しても、結局のところ「その人がより”良く”なるために何が必要なのか」を心理学が教えてくれるわけではないと分かり、愕然としました。でも夢を諦めきれず、「心理学は人を助けるために”使え”はするけれども、”決定的”ではないならば」と、医学の道を検討したり鍼灸技術を学ぼうとしたりもしましたが、これだ!というものは見つかりませんでした。くわえて、自分は”良い”カウンセラーになりたいと思ってきたけど、深く考えるうちに、その”良い”が一体何なのかも分からなくなってしまって…。人を救いたい思いはあるのに、その方法も方向も分からない八方塞がりの状態になりました。 そんな人生の壁にぶつかっていた時に知人を通してCGM(摂理)の教会に出会いました。教会の先輩に自分が心理学の限界にぶつかっていると打ち明けた時、「聖書でイエス様は、人間が”肉体”と”心”の二元論ではなく、肉体と心ともう一つ”霊”があると話されている。この”霊”を知らなければ、人を完全に見ることができないよ」と教えてもらいました。それを聞いて、「なるほど、人間の”霊”について知ったら、心の問題にも根本的にアプローチできるかもしれない」と目の前の霧が晴れたように感じたんです。それから聖書を学び始めました。鄭明析先生が教えてくださる御言葉を通して少しずつ神様やイエス様について知るなかで「この御言葉こそ自分が探していた真に人を助けるものだ」という思いが強くなり、カウンセラーではなく牧師を目指すようになりました。 Q.あなたにとって、先生はどのような存在ですか? 私にとって鄭明析先生は、誰よりも自分のことを深く理解してくれる方であり、まさに「人生の師」と呼べる方です。 心理学の壁にぶつかった進路の問題も、なぜ自分はこんなにも生かされているのかという子供の頃から抱いていた問いにも、他のどんな本でもなく人でもなく、唯一、鄭明析先生が伝えてくださる聖書の御言葉だけが私に答えをくれました。 聖書にこのような聖句があります。 心をつくして主に信頼せよ、 自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ、 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 (箴言 3章5〜6節) 私は生きる中でさまざまな問題にぶつかる度に、聖書を辛抱強く読みながら、そこから答えやヒントになる言葉一つ一つを集めて行なってきました。この聖句のように、いつも聖書の御言葉=イエス様の御言葉によって自分の問題が解決されたし、またもっと深い、あるいは正確な考えを持つようになったし、それによってより良く生きられるようになったと思います。ただ、これも「先生が教えてくれた御言葉どおりに」しただけなので、これからも一層努力していきたいです。 Q.信仰を持つようになって良かったことは? まず、自分が「生かされた意味」がわかったことが、私にとって大きな救いでした。神様が”愛するから”こそ、自分が産まれるようにしてくださったし、死ぬかもしれないところから何度も守り生かしてくださったんだなと。さらには、自分をより良く変化させ復活させるために愛してくださった、究極的には人生の目的と意味を悟れるようにしてくださったこと。この「生かされた意味」を知らないままだったら、ただ「(死ななくて)ラッキーだったな」で終わっていたと思うので、これが一番、信仰を持って良かったことですね。 もう一つは、信仰が私の人生に「何歳になっても色褪せない目的と意味を与えてくれた」ことです。これも自分にとって最高に大きいことでした。もし聖書の御言葉、つまり神様の真理を知らなければ、歳を重ねていくこと、30歳、40歳、50歳、それ以降の人生に希望を持てなかったんじゃないかと思います。たとえば、樹齢300年の大木を見て「この木はみすぼらしくてダサいな」とは思わないですよね? 木は大きくて古いほど雄大に感じたり、神秘的に感じたり、人々の尊敬の対象になったりします。一方、人間は老いれば老いるほどみすぼらしくなっていく……。実は、摂理で信仰を持つ前の私はこのような人生観を持っていました。でも今は違います。木がそうであるように、人間も永遠な神様の真理を知ることで、色褪せないどころか、行けば行くほどいっそう鮮明になり、深く美しくなるとわかりました。これって本当にすごいことではないでしょうか。自分の人生に生きる目的と意味を与えてもらえるのは、信仰を持つことの最も大きい価値と意味だと感じています。 Q.最後に、ひとことお願いします。 聖書、御言葉との出会いは、無価値に思えていたものに価値を与えてくれ、(存在しているのに)見えていなかったものが見えるようになり、「目から鱗が落ちる」変化を与えてくれます。人生のどこかでは必ず、この聖書と御言葉の味を感じてもらえたらいいなと思います。